僕に残された夕食はあと5000回。
一体どんな縁が待っているのだろう。
僕は4人兄弟の3番目として生まれた。上に二人姉がおり、下には弟がいる。父は多忙だったが、家族全員揃って食事することを大事にしており、そんなときにはにぎやかに会話が弾んだ。姉たちは思いのままに日常で起こったことを話題とし、父は社会や経済の情勢について持論を語る。話が縦横無尽に交差して、誰かが整理をしなければ、まともに会話が噛み合わない。気づけば僕は食卓につくたび、ある人の話題を止めてある人の話題を進めるという、まるで交差点の信号機さながらの役割を果たしていた。会話をまわす役割を長く続けてきたことが現在、役立っているとしたら、それは会食の席かもしれない。仕事柄なのか、好奇心が旺盛だからなのか、僕は昔から昼食や夕食をどなたかと外で取ることが多い。以前は一晩に3件、2時間刻みでアポイントを入れることもあった。当然ながら体はもたない。最近では1日1件に絞るようにしているが、それでも平日のほとんどは、どなたかと外食をしている。
父も仕事柄、会食が多かった。そして、いわゆる「接待」の達人だった。とにかく、居合わせた人を喜ばせるのが巧いのだ。僕も若い頃から父の会食に同行し、いろいろなことを学ばせてもらった。店の選び方から、会食している方との会話の運び方、会食の費用感、さらにはお客様にお渡しするお土産に至るまで。父の真意は分からないが、それらが現在、僕にとって役立っていることは間違いない。令和の幕開けと共に社長という立場になってから、僕はますます多くの人とお会いするようになった。昼夜問わず、食事をしながら親交を深めることも多く、お会いする日程が決まったときから僕は想像を始める。どんな場所で、どんな料理を食べ、どんな酒を飲み、どんなお話をお聞きしようか。100人いれば100通りの会食のスタイルがあるのだろうが、僕が心掛けていることは3つある。一つ目は、食事中は極力仕事の話を出さないこと。ジャパニーズビジネスマンの悲しい性なのか、仕事の話をし始めると勢いが止まらなくなってしまう傾向がある。だが、仕事の話は会議室ですることができる。食事中はその人の素顔を知りたい。二つ目は、できるだけ相手に話をして頂くこと。自分の話はこのShare the Realで言いたい放題言っているので、もうすでに満足している。もし、お相手がお酒を飲まない方なら、夜の会食ではなく、一緒にBBQをするとか、スポーツを観戦するとか、違う方法で機会を作る。そうすることで、盛り上がることができる。そして肝心なのが三つ目で、最低ひとつはインプレッションを残すこと。恋愛でも同じだろう。好きな人には自分のことを覚えてほしいし、良い印象を持ってほしい。手段はなんでもいいのだ、お土産でも貴重な酒でも、とびきり笑える話でも。「一緒に過ごして楽しかった」と思ってもらえることが重要だと思う。はじめから綿密にシナリオを作っているわけではないが、ジャズプレイヤーのジャムセッションのごとく、そこにいる仲間たちが盛り上がって楽しくなる、即興的な時間こそが最大の御馳走だ。結果として相手との距離が縮まることや、縮まっていく瞬間に、僕は人間として、生きている喜びを感じる。
そもそも僕が一緒に食事をしたいと思う相手は、これから長く付き合い、一緒にチームを作っていきたい人だ。「なぜかわからないけれど、この人と一緒に仕事をしてみたい」と直感が働く人とは、必ず食事をする。同じ釜の飯を食うなんて諺があるが、やはり一緒に食事をした人間は仲間なのだ。食事という、もっとも原始的な行為を共にすることは、「あなたともっと親しくなりたい」という意思を示すことであり、プライベートな日常を共有することで相手を深く理解し、人間性を立体的に解釈できる。だからこそどれだけ時代が変わっても、人と食事をする風習は残るのだろう。このコロナ禍、いずれ“オンライン会食”が当たり前になったとしても。高度成長期の会食・接待といえば「3セル」が基本だった。「飲ませる、食わせる、いばらせる」だ。今の時代、こんな会食・接待なんて絶滅危惧種だろうし、少なくとも僕がお客様をもてなす側ならそんなつまらないやり方は絶対にしない。僕が誰かと食事をする理由は「同士作り」や「絆探し」のようなものであり、「もてなす」「もてなされる」の主従の関係ではなく、むしろ全員横並びの位置関係だ。そもそも絆や仲間は「飲ませて作る」「いばらせて作る」というように、無理やり作るものではなく、直感的にひらめいたり、ご縁に導かれたりして作るものであり、いってみれば人間が誰かと食事をすることは、そのための活動なのだ。人生80年と計算すると、僕に残されたのは40年。仲間探しのために使える夕食はあと5000回程だ。その数は多いのか、少ないのか。どちらにしても、限りがあるのだと思えば、1回たりともつまらない時間は過ごしたくないし、意味のない集まりで無駄にしたくない。人生は合縁奇縁。5000回の食事を終える頃には、一体どんな縁が結ばれているのか楽しみに、今晩も新しい何かを見つけに、食事へ出かけようと思う。
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